横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

『パリの秘密』の社会史

『パリの秘密』の社会史
小倉孝誠 新曜社 

『パリの秘密』の社会史―ウージェーヌ・シューと新聞小説の時代

『パリの秘密』の社会史―ウージェーヌ・シューと新聞小説の時代

 

  ずっと前に買ったこの本を再読している。

 ふと思い立って、元ネタのウージェーヌ・シュー『パリの秘密』(Les Mystères de Paris)を先に読んでみた。ほぼ完訳(ほぼ、というのはところどころ割愛されているから)という集英社の江口清訳である。19世紀前半のパリを舞台にした小説で、これ自体はミステリとは言い難いが、後のミステリを含む文学作品にさまざまな影響を与えた。

 

 なので、最初に『パリの秘密』の感想を書き、後半で『「パリの秘密」の社会史』について書こうと思う。

 

<あらすじ>
 1838年のパリ。ロドルフ(その正体はゲロルスタイン大公)は行方不明になった娘を探すため、労働者に変装してパリの下町を歩く。ある夜、若い女性がならず者に殴られそうになっているのを助ける。彼女はフルール・ド・マリ、あだ名は<歌姫>といい、孤児だった。まだ16歳の少女で、幼少時の記憶がなく、<みみずく>婆さんの魔の手から逃れた後は感化院で過ごし、最近外に出てきたばかりだった。ならず者は<短刀刺し>といい、元は犯罪者だったが改心し、ロドルフを慕い助けるようになる。

 マリには感化院で仲良くなったお針子のリゴレットという友達がいた。リゴレットは隣人のジェルマン青年に恋をしていたが、彼は無実の罪で投獄されてしまう。マリの借金をロドルフが肩代わりし、パリ郊外で農園を営むジョルジュ夫人のところへ預けられる。田園に憧れていたマリは、夢が叶ったと喜ぶ。ジョルジュ夫人には、逮捕された夫との間に息子がいたが、息子は誘拐され、これまた行方を捜していた。

 同じ頃、ロドルフの元妻サラもパリに来ていた。そもそもロドルフが娘を失ったのは、この悪女サラが原因だった――。

 

 長いので以下省略(笑)。


 『パリの秘密』は、「フィユトン」と呼ばれる新聞連載小説だった。パリの労働者階級、犯罪者の世界とどうしようもない貧困や社会問題が描かれている。国王が庶民に変装して、困っている人々を助ける――まるで「水戸黄門」じゃないか!と思ったら、もう同じことが指摘されていた。言いたかったことも書かれているので、リンクを貼っておく。

ミステリの歴史4-2

 

 現代の読者が読んだら、とにかく横道にそれるし、辻褄が合わないところもあったりして「???」となるかも。途中「ところで、あの人はどうなった?」と、やきもきした。総じてゆるい大河ドラマという印象。

 ただ、ヒロインのマリが救出されて幸せな暮らしを送るようになってからも「私なんて……あんなひどい暮らしをしてきたし……」と病むほど悩んでいるところがフランス的というか、ハリウッド映画と大違い。もしこれがハリウッドで映画化されたら、きっと「マリは王子様と結婚しました。めでたしめでたし」みたいなラストにされるだろう。

 集英社版では4巻もあるので読者サービスなのか、登場人物紹介のところで思い切りネタバレしていた。「○○の子供」とか、「後に○○と結婚する」とか。

 オスマン男爵による「パリ大改造」前の、19世紀前半のパリの風俗を知るには格好の資料で、リゴレットが孤児なのは「育ての親が1832年コレラ流行時に亡くなったから」だとか、当時の刑務所、病院などの様子がよく分かる。完訳であれば、資料として尚良かったのに。

 

 『パリの秘密』は何度かヨーロッパで映画化されている。1962年版はジャン・マレー主演だが、登場人物の設定が色々変わっている。モレルの娘ルイーズが、モレルの妻になってたり。

Les Mystères de Paris (film, 1962) — Wikipédia


 後年のミステリとの関連。
 レオ・マレのネストール・ビュルマを主人公とした探偵小説シリーズは原題を「Les Nouveaux Mystères de Paris」(新・パリの秘密)といい、明らかに『パリの秘密』を意識している。

 作中、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」に似た場面が出てくる。猿が飼い主の真似をしてカミソリを扱うようになり、殺人を犯したという話だ。『「パリの秘密」の社会史』によると、シューはポーの作品は読んでいないらしいのだが、シンクロにびっくりする。


 さて、『「パリの秘密」の社会史』である。

 第1章「新聞小説の時代」から本書は始まる。シューが寄稿したのはパリの新聞だが、鉄道網の発達に伴い、地方の読者にもパリの新聞が届きやすくなったのは興味深い。シューだけでなく、ユゴー、デュマ、バルザックらが単なる「パリの文壇の寵児」に終わらず、「国民的作家」になった背景でもある。

 第2章「生の軌跡」では、日本であまり知られていないウージェーヌ・シューの生涯について、詳しく書かれている。ナポレオン皇妃が名付け親というセレブなのに、晩年はナポレオン三世に疎まれ、フランスを去って亡命生活を送るのだが、その場所はサヴォワ(イタリア語だとサヴォイア)の都市アヌシー。19世紀半ばの時点ではサヴォワはフランスの一部ではなく、「サルディニア王国」だった。

 手元にある『旅名人ブックス14 トリノ/北西イタリア・サヴォワ地方』を確認するが、この地方にゆかりのある作家というと、ジャン=ジャック・ルソーぐらい。ウージェーヌ・シューなんて出てこない。

旅名人ブックス14 トリノ/北西イタリア・サヴォア地方2版

旅名人ブックス14 トリノ/北西イタリア・サヴォア地方2版

 

  大学在学中にアヌシーに短期留学したのだが、サヴォワ地方の博物館だの観光パンフレットだのでも、ルソーの名前はよく見たが、ウージェーヌ・シューの名前は見たことがない。やはり本書にあるように、亡命生活を送ったり、共同墓地に埋葬されたり、さびしい晩年だったからなのか。『パリの秘密』が新聞に連載されていた頃の華やかな日々を思うと、なんとも冷たい扱い。

 フランス国内で検閲が厳しくなった1850年代というと、詩人ボードレールの『悪の華』が受けた扱いを思い出す。今でこそ名作の誉高いが、発表当時は反道徳的・反宗教的な内容であるとして裁判で有罪になり、6編の作品を削除させられた。作家や詩人にとって第二帝政は、窮屈な時代だった。

 今も名前が知られているデュマやジョルジュ・サンドといった他の作家たちは、シューやボードレールと対照的に、国家と対立しないやり方で作品を発表していった。そうやって生き残ったのだ。

 第3章は『パリの秘密』の解説、第4章は書名にもなった通り、社会史について。19世紀フランスの社会、文壇とマスコミ(新聞)の狂騒、パリの人口急増と貧困問題など、体系的に説明されており、当時の文学や文化を追いかける者にとっては貴重な資料。新聞業界事情に関しては、併せて山田登世子さんの『メディア都市パリ』を再読したくなった。