横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王

 

アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王」
Agatha Christie: An Elusive Woman
ルーシー・ワースリー著 大友香奈子訳 原書房


 少し前に、アガサ・クリスティーの自伝を読んだ。第三者による伝記は初めて読む(というより、第三者によるクリスティーの伝記って、日本語で出ていたっけ?)。今の時代に伝記を出す意義があるとすれば、関係者が亡くなり、忖度する必要がないことだろうか。自伝では見る事の叶わなかった手紙まで登場するのだから。

 

 アガサ・クリスティーの「名誉回復」のための一冊と感じた。特に、1926年の失踪事件の記述を見ると。自伝では一切ふれられていない部分だ。
 母クララの死、最初の夫アーチーとの離婚危機で参っていたアガサは、愛車で失踪する。ヨークシャーのスパ・ホテルに偽名で泊まっていたが、従来は「夫と浮気相手への当てつけでは?」と言われていた。ルーシー・ワースリーはメンタルの病気と記憶喪失の可能性を指摘し、事故に見せかけた自死を思いとどまったアガサが「別人に生まれ変わりたかったのでは?」と語る。
 メンタルが弱っていた部分は同意するが、この説には全面的には賛成しかねる。悪意ある「当てつけ」とまで行かないまでも、ただの偶然で、スパに泊まる時の偽名として夫の浮気相手の姓を名乗るだろうか?

 自伝を読んだ時にも思ったが、アーチーがなかなかのグズ。母親を亡くして悲嘆にくれる妻アガサへの態度が冷酷極まりない。辛気くさい雰囲気が嫌だと家から逃げ出し、若い女に走るのだ。自分の肉親を亡くしても、この男は逃げるのだろうか? だが、アーチーへの復讐ならば、アガサほどの作家なら、彼をモデルにした情けない男を小説に書いてしまうこともできただろうに。


 第二次世界大戦中、アガサは精力的に作品を執筆した。英国民を元気づけ、本人も現実逃避できる。自伝だけ読むとそう思えたが、本書では、その頃、米国の税金問題があったと指摘している。高額の納税を心配して、どんどん執筆していたのだ。
 また、英国の高額所得者の税率はバカ高く、芸能人は税金対策で海外に移住していた。英国に留まったアガサは、稼いでも税金で持って行かれてしまう。信託会社を作って対策したが、お金に関して人任せなのが気になった。
 アガサが少女の頃、働かなくても暮らせる身分だったのに、父が財産を失い、困窮したことがあった(庶民の困窮よりはずっと穏やかなものだが)。やがて作家として成功したアガサは豪奢な屋敷<グリーンウェイ>を買い、料理人にごちそうを作らせる。散財をする。まるで失った子供時代を取り戻すかのように振る舞うのだ。三つ子の魂百まで。
 そりゃあ、お金も貯まらないでしょう。

 
 ルーシー・ワースリーはまた、アガサが「働く女」「夫より稼ぐ女」だったことを指摘する。アーチーとの離婚も、それが原因の一つではないかと。もちろん、アガサは自伝では否定していたが。また、再婚した夫マックスは若手考古学者で、中東での発掘には資金が必要だった。アーチーとは違い、同じものを愛し、友愛で結ばれた結婚を実現したマックスは柔らかい頭の持ち主だったようだ。嫉妬するどころか、妻の資金援助を受け入れたのだから。

 アガサと一人娘ロザリンドの関係も、少し意外だった。ロザリンドがパパっ子だったのもあるが、どこかよそよそしい。一時、シングルマザーとして稼ぐ必要があり、アガサにとって仕事が非常に重要になった側面もある。離婚と再婚があり、アガサ自身が自分の人生を立て直す必要もあった。上流階級では、子供は寄宿学校や花嫁学校に入れるのが一般的だった。ロザリンドもそうだったが、母アガサから見て、自分の優先順位が低いことを感じていたらしい。
 学校を卒業後、職業や自己実現の道に進まず、さっさと結婚したロザリンドの姿が、アガサがメアリー・ウェストマコット名義で書いた『春にして君を離れ』の主人公の娘をどこか思わせるのだ。

 

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