横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学

『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』
Murder isn't Easy ~The Forensics of Agatha Christie
カーラ・ヴァレンタイン著 久保美代子訳 化学同人


 タイトルはクリスティー『殺人は容易だ』のもじり。
 著者は英国の病理学者で、以前、アガサ・クリスティーをテーマにしたドキュメント番組に出演していた。

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 「名探偵ポワロ」や「ミス・マープル」など、アガサ・クリスティーの作品には、当時最先端の法科学が登場していた。第一次世界大戦中に篤志看護師として、また薬剤師として働いた経験があり、彼女には医薬について基礎知識があった。特に毒物に詳しく、巻末の資料にあるように、作品には何度も毒殺が登場し(殺害方法としては最多)、様々な種類の毒物が使われている。
 詳しかったのは毒物だけではない。「自分の作品に信憑性と本物らしさを持たせるために調査は充分行なっていた」うえに、「警察の捜査手順、法律、裁判所の手つづきなどについて、専門家によく相談していた」という。本書では指紋、微細証拠、法弾道学、筆跡鑑定、検死、法医毒物学などが取り上げられている。
 
 20世紀初頭の英国は、ミステリの黄金時代を迎えていた。G.K.チェスタトンら同時代の作家たちが参加するイギリス推理作家クラブでは、現実世界の殺人事件について議論し、創作のヒントを得ていたらしい。たとえば、クリスティーの『オリエント急行殺人事件』は、リンドバーグ愛息誘拐事件がもとになっている。
 このイギリス推理作家クラブで「犯罪や小説についてほかの作家と意見を交換しあう機会」や「アイデアを出しあい、お互いの作品に疑問を投げ、本を共著し」た経験は、作品の向上にもつながっただけではなく、彼女にとって同業者との貴重な親交の場となったようだ。 


 作品ごとに殺害方法が一覧となっており、また本文にも出てくるので、できれば先にひととおり小説を読んだり、ドラマを見ておいた方が安心だろう。

 本書にはクリスティーと同時代の病理学者バーナード・スピルズベリーの名もよく登場する。「現代のシャーロック・ホームズ」と呼ばれた人物で、英国法科学の世界のスーパースターだ。前述のドキュメンタリー番組にも登場したっけ。

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 さて、本書には我らがエドモン・ロカールの名前も登場する。恩師ラカサーニュ、弟子のハリー・セーデルマン(参考文献にちなんでハリー・ゾエデルマンの表記)も。
 <ロカールの交換原理>はもちろん、「アガサはロカールの著作を読み、微細証拠の交換原理をよく理解していたはずだ」(p.105)と著者は述べる。
 クリスティーは上流階級の子女として、フランス語の教育を受けていた。彼女がフランス語で書かれたロカールの著作を読んでいて、小説にも影響を与えたという説は、とても魅力的だ。

 だが、間違っている部分がある。
 著者ヴァレンタインによれば、1922年にロカールが出版した「Policiers du roman et policiers de laboratoire」(本書では英題にちなみ「小説の中の探偵、ラボの中の探偵」)をクリスティーが読み、その影響で1923年に出版された『ゴルフ場殺人事件』にロカールの原理や「痕跡」という言葉が出てきたという。
 ロカールが同書を出版したのは1924年である。1923年の『ゴルフ場殺人事件』には間に合わない。ロカールの影響があったとしても別の本だろうし、「Policiers~」を読んで影響を受けたとしても、もっと後に出た本だろう。

 また、巻末の参考文献を見ると、ロカールの名前はない。ロカールの著書はいくつか英訳されているのだが、ヴァレンタインはそもそも読んでいないのでは? 
 
 エドモン・ロカールは世界各国から留学生や、捜査機関の現役捜査官をリヨン科捜研に迎え入れ、講義や講演会を行っていた。もちろん英国からも多くの研修生がやってきて、ロカールから多くを学んだ。上述のようにクリスティーが「専門家によく相談していた」ならば、その専門家(スコットランドヤードや科捜研など)がロカールに捜査技術を直接または間接的に学んでいた可能性も高いのではなかろうか。

 著者がロカールを読んでいたら、「クリスティーロカールの影響を受けた説」にはもっと説得力が出ただろう。