横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

ドキュランドへようこそ アガサ・クリスティーの世界

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 史上最高のベストセラー作家、アガサ・クリスティー。彼女の本は、聖書とシェイクスピアの次に読まれているという。

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  本人、子孫やドラマ脚本家、伝記作家、病理学者のインタビューを通して、クリスティー作品がどう生まれたかを探る。


 ミステリ好きには有名な話だが、アガサ・クリスティーは子供の頃に学校へ通っていない。家にある本を読んだり、空想をするうちに、お話を作るようになる。

 第一次世界大戦が勃発すると、ボランティアで病院に勤務し、やがて薬剤師助手として働くようになる。その際、毒薬の持つ可能性に気付く。たとえば、鎮痛薬の量を間違えると、命を危険にさらすという具合に。

 ミステリ作家アガサ・クリスティー誕生のきっかけである。

 また、法医学の知識にも詳しかったという。病理学者カーラ・バレンタインによると、名探偵ポワロの『ナイルに死す』の検死場面のように、「法医学や犯罪捜査の描写が正確」。

 取材場所の博物館には「毒殺された被害者の胃」が保存されているが、それは20世紀初頭に英国で活躍した病理学者バーナード・スピルズベリーによるもの。「まるでシャーロック・ホームズのような活躍ぶり」で、当時の重大事件を一手に引き受けていた。「法医学の父」と呼ばれ、彼が解剖を担当した事件のニュースは連日、紙面をにぎわせた。これがクリスティー作品のヒントになった。

en.wikipedia.org

 Wikipediaを見ると、フランスのエドモン・ロカールと同じ1877年生まれ。法医学の世界では、人材の当たり年だ。ちなみに、エドモン・ロカールも法医学者として科捜研で仕事をし、こちらもフランスの新聞雑誌をにぎわせていた。ドーバー海峡を挟んで、似たような立場の人がいたものだ。


 ミステリ作家としてのデビューは、1920年に発表した『スタイルズ荘の殺人』で。以降、優れた作品をどんどん発表していくが、まだクリスティーにとって、小説を書くのはあくまで「副業」だった。ところが最初の夫との離婚を経て、38歳の頃にはプロ作家になる決意をする。この辺のくだりは酒井順子『この歳だった』に詳しい。我々の知る、<ミステリの女王アガサ・クリスティー>の誕生である。

 離婚の前に、クリスティーは失踪事件を起こす。映画「アガサ 愛の失踪事件」にもなった事件だ。母の死で参っていたところへ、夫アーチーには不倫相手がいたことが発覚。彼女は偽名を使い、ハロゲートのスパに11日間滞在する。現在の「オールド・スワン・ホテル」だが、部屋のドアに「AGATHA」のプレートが。現在では良い宣伝材料になっているらしい。

 番組の伝記作家たちは「この失踪経験が後の作品に役立った」とか無理やりフォローしているけれど、夫の愛人の名前で宿泊するとか、当てつけに決まっているやんけ!! まだ30代だった若きアガサが夫の気を引くためにやった事だが、もう気持ちが離れている時にこういう事をしても、かえって逆効果なんだよね。


 さて、傷心のアガサが旅立った先は中東。英国のマスコミから逃れて、静かに過ごすため。そこで次の夫となる考古学者マックスと出会うのだから、何が幸いするか分からない。

 信頼できるパートナーとの出会いで精神的に立ち直っただけではない。異文化にふれ、自分のことを知らない人たちと交流し、思索を深め、視野が広がり――つまり、海外への長期滞在は、小説にも役立った。名探偵ポワロには、中東を舞台にした作品がいくつかある。

 オリエント急行への乗車体験からは、『オリエント急行殺人事件』も生まれた。


 第二次世界大戦が勃発すると、ロンドン空襲で郊外に疎開する。インタビューには自伝や回想録には書かれていない言葉が出てきた。死への恐怖である。

 戦争中、彼女は一年に3~4作というハイペースで発表していたが、どれも独創性と新鮮さがあるものばかり。伝記作家ローラ・トンプソンの分析では「プレッシャーや死への恐怖が彼女の集中力を高めたのでは?」。戦争に疲れた英国民は、クリスティー作品を読むことで束の間、現実を忘れた。こうして、アガサ・クリスティーの人気は高まっていったという。


 合間にドラマや映画の映像が入って楽しい。やっぱりポワロはデヴィッド・スーシェ版が、ミス・マープルはジョーン・ヒクソン版が良いのう。

 番組に登場したジョン・カランの本、日本語でも出版されているので読んでみようかな。

 

 

 あと、以前読んだこの本も再読したくなった。