横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

キム・フィルビー かくも親密な裏切り

『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』A Spy among Friends
ベン・マッキンタイアー著  小林朋則訳  中央公論新社

 キム・フィルビーは「ケンブリッジ・ファイブ」と呼ばれた大物二重スパイの一人で、ジョン・ル・カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』のモデルにもなった人物。本書あとがきを、MI6の後輩にあたるジョン・ル・カレが書いている。ずっと気になっていて、ようやく読了。「事実は小説より奇なり」を地で行く。

 

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 第二次世界大戦より前、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学などエリート学生の間で、共産主義に傾倒する者が少なくなかった。「ケンブリッジ・ファイブ」の一人、ガイ・バージェスは映画「アナザー・カントリー」の主人公のモデルにもなった。本書にも登場するので、「アナザー・カントリー」の後日譚でもある。

 

 

 「ケンブリッジ・ファイブ」の面々を主人公にするだけで十分面白い本になりそうだが、本書が秀逸なのは、フィルビーと似たような境遇のニコラス・エリオットと対比させたところ。エリオットはMI6の同僚で、やはりエスタブリッシュメントに所属し、名家出身、良い学校の卒業生、父親と仲が悪い――など、共通点が多い。フィルビーは父親のせいで愛国心を捨てたようなものだが、だからといって、父親と折り合いの悪い息子たち全員が共産主義に走り、スパイになるわけではないし、KGBのスカウトに乗るわけでもない。

 

 現代の読者は「こんなに恵まれた境遇にいながら、どうしてこうなった?」と驚くだろうが、逆に「恵まれた境遇」だったからこそ「こうなった」とも言える。
 諜報機関に入るには、一定の条件をクリアしていなければならない。戦略上重要な場所での職歴も考慮される(フィルビーは大戦中、イベリア半島でジャーナリストとして勤務した)場合もあるが、エリオットのように「あの父親の息子なら大丈夫だろう」と身元と愛国心を保証され、許可される場合もある。高い教育を受けていた、というのもあるだろうが。諜報機関MI6に入り、「セクションV」に配属されるのは「エリート中のエリート」だったのだ。

 KGBのスパイにスカウトされ、引き受けた経緯も興味深い。

「エリート部隊への入隊を提示されて、ためらう者などいない」とフィルビーは書いている。この一文がすべてを物語っている。この新たな役割に魅かれたのは、それが誰でもなれるわけでも排他的なものだったからだ。

 

 ここまで来ると、ただのエリート志向ではない、歪んだ何かを感じる。

 晴れて共産主義のスパイとなった後は、MI6で情報収集を行う。彼が出世すればするほど、重要情報が手に入る。

 

諜報機関のメンバーは、自分たちの仕事を友人や妻、子供らに話すことを禁じられており、だからこそ多くの者が、他人に絶対知られてはならない秘密を共有することで結束している閉鎖的な集団に引き寄せられていた。

 

 週末にもプライベートな食事会で集まり、公私共に親しい関係を築く。オフィスであれ自宅であれ、よそでは言えないことも同僚の前でなら話せる。フィルビーのような二重スパイにとっては、簡単な情報収集手段だった。

 格好の環境に加えて、フィルビーは「人たらし」だった。若い頃のフィルビーの写真を見ると、男性も女性も魅了される外見と雰囲気を持っている。相手から情報を引き出すうえで、「誰とでも仲良くなる才能」はスパイに必須なのだろう。ちなみに、ジョン・ル・カレことデイヴィッド・コーンウェルもそういう素質を持っていた。


 フィルビーとエリオットはそれぞれ出世街道を駆け上る。フィルビーにとっての唯一の気がかりは、ソ連からの亡命者だった。ソ連側の情報(それにはスパイの名前も含まれる)と引き換えに英国へ亡命することが多く、時にはフィルビーは保身のため、情報提供者をわざと見殺しにした。ヴォルコフの時は救出が間に合わず、みすみす死なせてしまった。

 また、MI6の担当者としてソヴィエト情報部と戦う計画を立てる。だが同時にソ連に作戦の詳細な情報(実行日や工作員の潜入場所など)を流すことで、作戦は失敗に終わる。複雑な「自作自演」状態に陥る。いつ二重スパイがバレるかという恐怖もあり、神経は休まらない。そんな日々を30年あまり過ごしていた。

 ある時、「ケンブリッジ・ファイブ」のうちガイ・バージェスとドナルド・マクリーンに嫌疑がかかり、二人はモスクワへ亡命する。共通の知人であるフィルビーにも疑いの目が向けられ、調査が入る。MI5は厳しい目を向けるが、MI6(特にエリオット)は身内をかばいまくり、記者会見を見事に切り抜けたこともあり、ついにはフィルビーの嫌疑は晴れる。さすがにMI6は解雇されるが、別の任務を用意するのだ。

 MI6(というよりエリオット)の甘さに絶句してしまう。「いや、逮捕しようよ」と言いたくなる。同類の人種ばかりをコネ採用した欠陥が究極の形で表れている。

 中東ベイルートでジャーナリストの仕事をしながら情報活動を行うフィルビーだったが、その矢先、MI6のジョージ・ブレイクがソ連の二重スパイだったことが発覚し、厳しい判決を受ける。

 ブレイク逮捕と前後して、KGBの上級将校が西側に亡命し、「ケンブリッジ・ファイブ」の存在を漏らしたことから、フィルビーの名前が再浮上する。フィルビーは追い詰められ、エリオットが尋問のためやってくる。
 結論から言うと、MI6は監視をせず、フィルビーはモスクワへの亡命を果たす。逮捕すれば、英国内での裁判はまぬがれない。エリオットを始め、MI6の幹部たちはスキャンダルを避けたかった。それぐらいなら、みすみすモスクワへ逃げさせる方がはるかにましだったのだ。

 フィルビーに長年騙されていたのはMI6のエリオットだけではない。フィルビーとは旧知の仲だったCIAのアングルトンも騙されていた。フィルビーのワシントン駐在時代は毎週昼食を共にし、そうとは知らず情報を漏らしていたのだ。人間不信に陥り、CIAで「モグラ狩り」を行った。


 1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦は終結する。1991年にソ連は解体。フィルビーはそれを見届けることなく、1988年に亡くなっている。もう少し長生きしたなら、この光景を見てどう感じただろう?

 少し前に、MI6が一般公募による求人を行うというニュースを見た。それでも、幹部職員候補は相変わらず昔ながらのコネを使ったリクルート方法なのだろうか? それとも、キム・フィルビー事件に懲りて、以降はリクルート方法を変えたのだろうか? 知る由もないが。

 

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 以下、余談。
 日本語や洋書でノンフィクションを読むけれど、良いテーマだけでは面白い本にならないんだよね。作家が素材の扱いに失敗すると「どうしてこうなった!?」。作家の構成能力、資料を取捨選択する能力が大事。いくら貴重な資料だからって全部詰め込めばいい訳じゃない。何を入れ、何を捨てるか、編集・加工するスキルが必要。最近、ベン・マッキンタイアーを含めて何人かの作家の仕事に感嘆したばかり。

 時々、「うわあああ! お前、せっかくの素材で何てことするんだ!」と言いたくなるノンフィクション作家がいる。もう、翻訳者に手出しできる領域ではない。上述の作家たちの爪の垢を煎じて飲ませたいぐらい。