横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

ソーニャ、ゾルゲが愛した工作員

『ソーニャ、ゾルゲが愛した工作員 愛人、母親、戦士にしてスパイ』
Agent Sonya  Lover, Mother, Soldier, Spy
ベン・マッキンタイアー著  小林朋則訳  中央公論新社

 第二次世界大戦前後に活動した女スパイ「ソーニャ」ことウルズラ・クチンスキーの伝記。原題は子供の数え歌と、ジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(Tinker Tailor Soldier Spy)のもじり。

 

 ウルズラ・クチンスキーはドイツの知識人家庭に生まれたユダヤ人で、父親と兄は学者。若い頃から共産主義に傾倒し、建築家ルドルフ・ハンブルガーとの結婚を機に上海へ移り住む。1930年、魔都・上海(「東洋のパリ」「東洋の娼婦」とも呼ばれた)にはたくさんの外国人が集まっていた。
 社交界に飽きていたウルズラは、共産主義者の米国人記者アグネス・スメドレーと知り合い、たちまち親しくなる。実は、アグネスはソ連のスパイだった。彼女からリヒャルト・ゾルゲを紹介され、彼の協力者となる。

 ゾルゲと一時期愛人関係にあったというが、ゾルゲの出番は短い。モスクワからの指令で、ほどなくゾルゲは日本へ出発してしまうのだ。イアン・フレミングゾルゲを「史上最も傑出したスパイ」と評した。

 

中年にさしかかろうとしていたにもかかわらず、1930年のゾルゲは架空の人物ジェームズ・ボンドと明らかによく似ていて、特に外見と、アルコールに目がない点と、病的と言っていいほど盛んに女遊びをするところは、そっくりだった。

 

 

 ウルズラをスパイの道に引き入れただけでなく、魅力的な男性だったゾルゲは彼女に強い印象を残し、生涯彼の写真を手放さなかった。


 ゾルゲが去った後、失意のウルズラはスパイとしてスキルアップしたいと思い、モスクワのスパイ学校で訓練を受けることになる。夫に「スパイである」ことを打ち明け、単身渡航するのだ。母国ドイツではナチスによるユダヤ人迫害が激しくなり、ルドルフも共産主義者になった。
 チェコに逃れていた夫の両親に長男を預け、モスクワに行くと、ソ連軍情報部(GRU)はスターリンによる「大粛清」の真っ只中。上司や知り合いのスパイが次々と処刑される。彼女が生き残れたのは「人柄のおかげだろう」と著者は分析するが、むしろ本人が言うように「強運のおかげ」ではなかろうか。

 

 ウルズラの特異な点は、スパイと母親業を両立しているところだ。むしろ、子供がいることをスパイの隠れ蓑にしていた。
 次の任務で、息子と同僚ヨハン・パトラと共に満州奉天へ向かう。パトラと交際するシングルマザーを装いながら、夜中に無線通信で情報を送るが、協力者の中国人が捕まったのを機に、脱出する。


 次の任務地である永世中立国スイスのジュネーヴでは、各国のスパイが暗躍していた。スペイン内戦で戦った「国際旅団」メンバーの英国人を協力者としてスカウトし、のどかな村で母子で暮らしながら活動する。子供のぬいぐるみや乳母車に荷物を隠すのは当たり前だ。

 ドイツに潜入した部下の立ち寄ったレストランが偶然ヒトラーの通う店で、爆殺を仕組むが、「独ソ不可侵条約」により政治状況が変わり、果たせなかった。歴史に「もしも」は付き物だが、ここでヒトラー暗殺に成功していたら、歴史は大きく変わっただろう。
 また、「永世中立国」スイスは、実はドイツに侵略される寸前だったのも初めて知った。フランスはドイツに占領され、辛うじて南部がまだ自由地帯だったが、イタリアにはムッソリーニがいて、スイスは包囲されかけていた。

 

 乳母の密告で諜報活動が発覚しかけると、部下の英国人レン・バートンと結婚し、英国籍のパスポートで国外脱出する。先にクチンスキー家は英国に移住していたが、共産主義者としてMI5に監視されていた。当然、ウルズラもマークされるが、ここでも「女性」「主婦」「母親」であることを隠れ蓑にする。バートン夫妻のうち、本当に危険な人物は妻の方だったのに、MI5は夫レンの方を重視し、ウルズラを軽視したのだ。

 英米は原爆の開発に着手するが、ウルズラはその情報をソ連に流し始める。ドイツから英国に亡命した科学者クラウス・フックス、そして映画「ジョーンの秘密」のモデルとなったメリタ・ノーウッドから得た情報を、モスクワに送るのだ。
 当然、MI5の凄腕ミリセント・バゴット(ジョン・ル・カレ「スマイリー三部作」のコニー・サックスのモデル)に「怪しい」と感づかれるが、その上司や尋問官が無能だったおかげで、またもや逮捕を免れる。やはりものすごい強運の持ち主。バゴットがある情報を照会した相手が、MI6のキム・フィルビー(「ケンブリッジ・ファイブ」と呼ばれた二重スパイ)だったこともウルズラに幸いした。

 

 終戦後、英米共産主義国ソ連の協力体制は終わり、東西冷戦時代が始まる。米国から英国に戻ったクラウス・フックスは、重責から自白し(尋問のおかげではなく)、逮捕される。フックス逮捕を知ったウルズラの行動は素早かった。下の子供2人を連れて、ベルリンに飛んだのだ。それきり英国に戻ることはなかった。
 ベルリンに到着すると、ソ連情報部が接触してくるが、彼女はスパイ引退を申し出る。有能なスパイだったウルズラだが、さすがに20年にも及ぶ、家族にすらすべてを隠す二重生活に疲れたのだ。
 長男と夫も合流し、一家はベルリンの壁が築かれた東ベルリンで暮らし始める。ウルズラはルート・ヴェルナーの筆名で(自伝的要素もある)児童書を出版するが、やがてスパイだったことを公表する。


 最初の夫ルドルフとそのまま一緒にいたら、穏やかな家庭生活を送れたはずだ。彼女が20年もスパイを続けた動機は何だったのか。

 

スパイ活動は、依存性も高い。秘密の力という薬物は、一度でも味わったら、断つことは難しい。
・・・
自分と家族を危険にさらす、重大な危機に直面したこともあったが、何とか切り抜けた。人は困難な状況を切り抜けると、アドレナリンで気分が高揚し、破滅を逃れたことで運命を強く感じるようになる。
・・・
心の中に絶えず潜んでいた野心とロマンと冒険心が入り混じった、並々ならぬ気持に突き動かされたからでもあった。

 

 スパイとしての素質も高かったが、彼女は平凡な生活では満足しなかったのだ。ゾルゲとの出会いはスリルと冒険をもたらした。

 ウルズラについて「強運」と書いたが、危険回避能力も高かった。要所要所で先回りして脱出したおかげで、逮捕をまぬがれ、生き延びたのだろう。
 対照的なのが、彼女を追うようにスパイになったルドルフだ。良き父親、良き市民ではあったが、「人としてはあまりに正直すぎ、スパイとしてはあまりに無能すぎ」た。危険回避能力が低く、あっけなく逮捕されてしまう。最後にはソ連強制収容所に送られてしまう。

 ウルズラに連れられ、世界各地を転々とさせられた子供たちは、大人になるまで、というか自伝を発表するまで、母親がスパイだと知らなかった。夜中に無線通信をするため、よく昼寝をしていたり、よその母親と違う不審なところはあったが。英国の田園地帯でのどかに暮らしていたのが突然東ベルリンに連れて行かれ、シュタージによる監視を受けながら暮らす羽目になった。子供たち(あと、スパイ仲間ではあるが英国人の夫レン)にとっては、どちらがより暮らしやすかったのか。


 レビューを書いてない分も合わせると、ベン・マッキンタイアーの本は何冊目かなあ。リサーチがものすごくて、下手な映画より面白い。
 「ジョーンの秘密」も、あんな脚色じゃなければ良かったのに。「ジョーンの秘密」に限らないが、どうして史実をわざわざ変な小説や映画(なぜか恋愛もの)にするんだ。特に女性作家に多いのだ。なんでだ。

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