横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

映画はアリスから始まった

「映画はアリスから始まった」Be Natural: The Untold Story of Alice Guy-Blaché
監督:パメラ・B・グリーン
ナレーション:ジョディ・フォスター

 知られざる女性映画監督アリス・ギイを再発見する。膨大な資料と、アリスの家族、彼女と一緒に仕事をした人物の子孫、研究者、映画人へのインタビューで構成されている。アリスの作品の映像も流れる。女性監督というだけでなく、映画監督そのものの先駆者だったフランス女性が、なぜ現代では誰にも(映画人ですら)その名を知られずにいたのか、米国の女性監督パメラ・B・グリーンが追いかける。
 原題は、映画撮影中にアリスが俳優たちに「自然な演技をして」と言った言葉から。

 

 1895年、パリ。リュミエール兄弟による世界初の映画が公開された会場を、写真会社社長のレオン・ゴーモンと秘書のアリス・ギイが訪れていた。映像は「工場の出口」のように、歩く人々をそのまま撮影したもので、それを見たアリスは「記録するだけの映像は退屈。映画で物語を作ったらどうかしら」と思い立つ。
 上司のゴーモンは「秘書の仕事に差し支えなければ」とOKを出す。若き女性映画監督の誕生である。
 ゴーモン社は後に、他社から事業を買い取り、今日に続く映画会社となる。リュミエール兄弟の開発したシネマトグラフ・リュミエールに、エジソンの開発したキネトスコープなど、光学機器の開発・向上が著しい時代だった。

 

 最初にアリスが撮影したのは「キャベツ畑の妖精」。ヨーロッパには「子供はキャベツ畑からやってくる」という言い伝えがあり(日本だとコウノトリ)、それをモチーフにした短編。この作品を皮切りに、おとぎ話、ダンス、コメディーなど、様々なジャンルの映画を生み出していく。
 ゴーモン社の製作部門責任者だったアリスは、初期のトーキー技術も取り入れる。現代の映画で行われていることを、ほとんど先取りしていたのだ。
 まだ女性の社会的地位は低い時代だったが、アリスは野心的にも、男女の役割を逆転させた映画「フェミニズムの結果」を撮っている。妊婦が主役の「マダムの欲望」などは、女性監督ならではの視点だった。
 映画監督として画期的なのは、当時の映画は不自然な動きが目立ったが、俳優たちに「自然に演技して」と声をかけ、今見ても違和感のない動きをさせていたことだ。「女だから」と遠慮せず、女優を主役にし、また、女優たちもお飾りなどでなく、体を張った演技をしている。


 英国支社の社員だったハーバート・ブラシェと一緒に仕事をしたアリスは彼と恋に落ち、結婚する。ハーバートの転勤に伴い夫婦で渡米し、子供を出産したアリスはしばらく育児に専念する。
 やがて、使われていないスタジオを利用してソラックス社を設立し、アリスは再び精力的に映画を作るようになる。ニュージャージー州フォートリーに移転すると、周辺に他の映画会社もスタジオを置き、映画の一大産業地となった。

 この頃、アリス以外にも、彼女に続く形で米国に少なからぬ数の女性映画監督が誕生し、映画を撮っていた。
 映画史を学んだことはないが、これだけ大勢の女性監督の名前を聞いたことがない。
 なぜだろう?

 

 やがて映画産業は西海岸に移る。ハリウッドの繁栄の始まりである。ブラシェ夫妻は別居し、やがて離婚する。スタジオ火災、スペイン風邪フォートリーの没落を経て、ソラックス社のスタジオを売却したアリスはフランスへ帰国する。

 米国で実績を作ったアリスだが、母国フランスでは無名の監督だった。相変わらず女性の地位は低く、企画書を送っても、シナリオを書いても、世界恐慌もあり、なかなか映画を撮ることは叶わなかった。第二次世界大戦中は、フランスはナチス・ドイツに占領された。米国でバリバリ働く母親の背中を見て育った娘シモーヌは秘書として働き、家計を支えた。まるで若い頃のアリスが母親を扶養したように。
 
 ゴーモン社は社史を、映画評論家は映画史の本を出すが、アリスの名前は載っていない。載っていても、別の男性監督が彼女の作品を監督したことになっているなど、記述が間違っている。訂正を求める手紙を何度も出す。アリスの後半生は、正しい映画史を求める戦いだった。自伝を書くが、あちこちの出版社に断られ、ようやく出版されたのは1976年。彼女が94歳で亡くなってから8年後のことだった。

 

ja.wikipedia.org

 ナレーションの声が英仏バイリンガルで、「誰だろう?」と思ったらジョディ・フォスター。確かフランス映画「ロング・エンゲージメント」にもフランス人女性の役で出ていたっけ。

 アリス(および、他の女性監督たち)の名前が埋もれた大きな理由として「女性差別」を挙げているが、もう1つ、フィルムそのものが紛失していることも大きいと思う。また、映画中に名前を記録することへの意識が薄かった、当時の管理体制にも問題があったのではないか。
 というのも、こちらの記事(フランスの映画ガイド本)にもあるが、2014年にパリのシネマテークで100年前の映画のフィルムが「発見」されたのだ。たまたま、現代でも話題性のあるシャーロック・ホームズの映画だったから公開され、ⅮⅤⅮも販売されたが、他にも「消失」または「焼けた」と思われる貴重なフィルムがどこかに埋もれているのではなかろうか。
 数年後には、映画史が大きく変わる気がする。

 

【関連書籍】

 

【追記】
『私は銀幕のアリス』読了。

 映画に出て来ないエピソードが満載。
 原文はもっと長かったのに、出版社からの「長い」という注文(出版しなかったくせに)に、やむなくカットしたとか! アリスが最初に書いた回想録、読みたかったなあ。

 アメリカで監督の仕事を再開したアリス・ギイ。若きチャールズ・チャップリンとの出会い。ヨーロッパのスターが渡米し、映画に出演する。その中には、フランスが誇る女優も。


 1912年、サラ・ベルナールはすでに病気で手術をしていたと思うが、その年にニューヨークを訪れ、私の記憶が正しければ、ちょっとジョン・バリモアに似た若い新進スターと「マダムX」を演じた。だが、その舞台はひどい代物だった。
 レジャーヌもまた、「無遠慮夫人」でアメリカの観衆をがっかりさせた。


「マダムX」「無遠慮夫人」は、アリス・ギイが監督したものではないが、フランス演劇界のスターが出演した映画なので、気になったのだろう。

 巻末の、アリスが監督した作品リストは貴重。1913年にホームズ映画を3本撮っていた。Wikipediaには載っていなかった作品もある。タイトルだけメモしておく。

・「Cousins of Sherlock Holmes」(シャーロック・ホームズのいとこ)

・「Burstup Holmes' Murder Case」(バーストップ・ホームズの殺人事件)
 ★動画あり

・「Burstup Holmes Detective」(刑事バーストップ・ホームズ)

 フランスと米国のシャーロキアンが作ったホームズ映画本(こちら)は、1929年以降なので、これらの映画は載っていない。そもそも写真、映像が残っていないと、紹介できないのだろう。

 海外の研究者がホームズ映画をまとめたサイトでは、Solaxという映画会社名はあるものの、監督アリス・ギイの名前が書かれていない。今だったら書けるのに。