日本における「フランスかぶれ」が、いつ頃からどのように始まったのか、明治、大正、昭和初期の文壇を追いかけた好著。
明治の文芸誌「明星」に、フランスの文学作品の翻訳がこれほど多く掲載されていたとは! 本邦初訳というものも多いのではなかろうか。この辺りからフランスかぶれは始まっていた。明治35年4月号の表紙画は、ミュシャのポスターを思い出すデザインだ。
上田敏や堀口大学の翻訳は、今読み返しても美しい。フランス語の高い読解力、日本語の教養、本人の文才もあるけれど、まだそれほどいい辞書がなかった時代だったことを思うと、感嘆しかない。
以前、『言語都市パリ』という本で、明治~昭和初期に多くの作家や画家らがフランスへ渡ったことを知った。永井荷風のような有名人もいれば、「えっ、こんな人も渡仏していたの?」という意外な人もいたっけ。
本書でも、渡仏した作家たちを紹介しているが、永井荷風、大杉栄、堀口大学のエピソードが特に興味深かった。
永井荷風は<偏奇館>と命名した洋館に、かつてフランスで買い集めた本を所蔵していた。だが第二次大戦中、東京は空襲にあい、家も蔵書も焼失してしまう。フランス滞在の日々の記憶まで失われたわけではないだろうが、洋館の趣向や蔵書はフランスの思い出、アイデンティティと結びついている。その喪失感、虚脱感は想像に余りある。
このくだりを読んで、ふと仏文学者・鈴木信太郎の記念館を訪れたときのことを思い出した(記事はこちら:鈴木信太郎記念館)。鈴木信太郎もやはりフランス留学の経験があり、現地で稀覯本など貴重な書籍をたくさん買い集めて帰国した。ところが本を別の船便で送ったところ、船が火災にあい、本もすべて焼失した。その衝撃は大きく、しばらくメンタルをやられてしまったという。その時の経験から、自宅の書庫を頑丈な蔵で造り、戦時中に空襲があった時も、書庫も蔵書も無事だったという。
アナーキスト・大杉栄は、その活動ゆえにパリでも投獄されたが、それがなんとサンテ刑務所。詩人アポリネールも投獄された場所だが、それだけではない。アルセーヌ・ルパンも収監されたことがある。そのつながりで(?)、以前見たあるお芝居では、ルパンと大杉栄を結び付けていたけれど、独房だと接点は持てないんじゃないかなあ。
堀口大学って、意外にセレブだったのね。知らなかった~。日本公使の息子として父親の海外勤務について行き(羨ましい!)、さらに父親も文学に理解があり、本をいくらでも買えたという(これまた羨ましい!)。『言語都市パリ』に登場した日本人なんか、日本でも貧乏だったのに借金までして無理やり渡仏しちゃって、フランスでも貧乏暮らしで……なんて人もいたのに。
父親の赴任先の中南米でも、やはり人々は「フランスかぶれ」だったらしい。パリのファッション、香水、眉の描き方に至るまで、フランス流がはやっていたという。
本書より引用する。
フランスかぶれは日本だけでなく世界中の上流階級に及んでいたのだ。世紀末からベルエポックにかけて、フランス文化は世界に覇を唱えていた。
ちょっと前までは、日本以外の国でも、フランス語にはある種の力があった。
1990年代のヨーロッパの非仏語圏でも、フランス語を話せると一目置かれた。フランス語学校のクラスメートがオランダに帰国したので遊びに行き、一緒に電車に乗って出かけた時のこと。変なおっちゃんに絡まれたけど、彼女はシカトしてわざと私にフランス語で話しかけると、おっちゃんは私たちを良家の子女とみなして「あっ、やべっ(こんな失礼なことしちゃいけない身分の人だ!)」となって大人しくなった。おっちゃんが大人しくなった理由は、後で友人が説明してくれた。
フランスの後で英国に渡り、英語学校に入ったが、放課後、フランス人学生とフランス語で雑談していたら(普段はお互いの勉強のため、英語で話していた)、偶然英国人の教師が通りかかり、「キミはフランス語が話せるんだね!」と目を輝かせた。
本書で紹介される堀口大学の詩より抜粋。
その頃 西欧でも中南米でも
日本はまだ神秘に包まれた
極東の小国でした
……
それがフランス語を話し
……
まさにパンダなみの珍獣でした
非仏語圏の国で、東洋人の私がフランス語を話した時の反応は、そうか珍獣だったのか。堀口大学のようにモテたりはしなかったけどな!
なんで日本人て、「フランス」って聞いただけで、あんなにうっとりするんだろう?
ただフランス語っていうだけで、おバカなこと言っても「素敵~っ!」って言う奴いるし。そこから滞仏経験のあるレ・ロマネスクさんは「Un Grand de Riz」という名曲を作ったんだよね。
【山田登世子さんつながりで】