横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

モリアーティ秘録

『モリアーティ秘録』
キム・ニューマン著 北原尚彦訳 創元推理文庫 

モリアーティ秘録〈上〉 (創元推理文庫)

モリアーティ秘録〈上〉 (創元推理文庫)

 

 

モリアーティ秘録〈下〉 (創元推理文庫)

モリアーティ秘録〈下〉 (創元推理文庫)

 

  ホームズとワトソンのコンビと対照的に、モリアーティ教授のそばにはモラン大佐がいる。そのモラン大佐が語り手というかワトソン役となって、関わってきた犯罪の事件簿を書いていたら――?

 

 モリアーティ教授といえば、名探偵シャーロック・ホームズの最大の敵。魅力的な敵がいるからこそ、ヒーローも輝く……だけではないけれど、ここ最近、ミステリの世界はちょっとしたモリアーティ人気。海外でも日本でも、モリアーティをメインにした作品が次々と出版されているのだ(訳者あとがきに主要な作品のラインナップがあるので、興味ある方は参照されたし)。

 今度自分も読みたいと思っている作品に『憂国のモリアーティ』シリーズがある。日本の漫画はどんどんフランス語訳されているので、いつかこの作品も翻訳されないかなーと願っている。

【追記】『憂国のモリアーティ』フランス語訳出てた。

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 ちなみにバンドデシネでも、モリアーティをメインに据えた本は出ている。もともと小説の分野で、パスティーシュに事件の黒幕としてモリアーティが出てくるということは多かったけど、漫画の世界もとなると、モリアーティ人気は世界的なトレンドなのではなかろうか。


 『モリアーティ秘録』は、あとがきに「原典を知らなくても大丈夫」とあるが、やはりホームズ物語を読んでいる方が深く楽しめる。モリアーティとモランが娼館に下宿しているとか、「コンジット街コマンチ団」とか(ベイカー街イレギュラーズのもじりか?)、アイリーン・アドラーの呼び名とか、ことごとく聖典の裏返しになっているのだ。タイトルも「血色の記録」「ダーバヴィル家の犬」のように、聖典をもじってある。

 聖典の登場人物があちこちに出てきて、注釈に書ききれないほど。アイリーン・アドラーのように主要な役で登場する人物もいるけど、何気なく小さな役で名前が出てくるので、シャーロキアンには見つけるのも楽しいだろう。「ギリシャ語通訳」のソフィー・クラティディスが意外な役回りでびっくりした(しかも聖典の結末とリンクしている)。ただし、シャーロック・ホームズの名前はみじんも出てこないのがミソ。ほのめかす言い回しは出てくるのだが。


 ホームズ・パスティーシュは同時代の有名人や小説をからめてくることが多い。本作にはジュール・ヴェルヌ作品でおなじみのピエール・アロナックス教授が出てきたリ、アンソニー・ホープの『ゼンダ城の虜』やトマス・ハーディの『テス』の世界とからめてあったり、さらにドクトル・マブゼや「レ・ヴァンピール団」とイルマ・ヴェップ、アルセーヌ・ルパンの父テオフラストまで登場してくると、もう何が何やら。

 ホームズ物語の発表時期よりもジュール・ヴェルヌの『海底二万里』の方が早いので、ピエール・アロナックスは老教授として登場する。アルセーヌ・ルパンの活躍には早すぎるので、その父親の方を出してくるというのがナイス。余談だが、「ミステリマガジン」2018年11月号はアルセーヌ・ルパン特集だったが、北原尚彦さんの「怪盗対犯罪王」ではモリアーティ教授と、まだ少年だったアルセーヌ・ルパンが競演する。

 加えて、昔のホームズ映画(ビリー・ワイルダー監督とか)の登場人物まで出てくる。もうこうなると、読む側も追いかけるのが大変。英語圏の読者なら、比較的容易に追いかけられたのか、それは分からない。

 そんなわけで、ホームズ物語はもちろん、19世紀文学が好きな方にはオススメの作品である。