横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

収容所のプルースト

『収容所のプルースト
ジョゼフ・チャプスキ著 岩津航訳 共和国 

収容所のプルースト (境界の文学)

収容所のプルースト (境界の文学)

 

 
 無人島に一冊持っていくとしたら、どの本にしますか。
 ではなく
 収容所で一冊だけ許されるとしたら、どの本を持っていきますか。

 

 訳者解説からの引用だが、究極の質問である。

  第二次大戦中、ポーランド軍将校だった著者はソヴィエト軍の捕虜となり、収容所へ送られる。厳寒の地での労働を余儀なくされ、明日の命も分からない身だったが、捕虜仲間には将校、神父や医師など知識人が多く、労働を終えた夜間に、文学などの講義を行う許可を得る。

 「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉が似つかわしい環境である。

 貴族の家に生まれ、若い頃はパリで画家として修業したチャプスキはフランス語に堪能で、講義のテーマにプルーストを選ぶ。20代にフランス語で読んだプルーストの小説『失われた時を求めて』を、20年近い年月を経て、記憶を頼りにポーランド語で語るというのは非常に困難な作業だが、プルーストという作家および『失われた時を求めて』という小説の本質をつかんでいた。

 本書の元となった講義のノートが残っており(捕虜仲間が記録していた)、戦後に解放されると、プルーストに関するエッセイとして出版された。


 プルーストの文章の特徴に、一つのフレーズが長いということがあるが、当時ポーランドではボイ・ジェレンスキによる翻訳が出ていた。しかし、原文のように長い文章のままだと、一般の読者に受け入れられないと判断したボイ・ジェレンスキは、文章を短く変えてしまった。それだけでなく「段落分けし、会話文はテクストに埋め込まず、話者ごとに改行した」という。ボイ・ジェレンスキいわく「本質的なものを伝えるために、繊細さを犠牲にした」。そのため、チャプスキは彼と議論を交わしたという。

 私にはプルーストを原書で読むほどの根気も、ポーランド語の読解力もないが、さすがにそれは翻訳を超えて文体改造をやってしまったのでは?という気がする(現在では、原文に忠実なポーランド語訳は出ているのだろうか)。いちばんプルーストらしい部分を犠牲にしてしまった。チャプスキがボイ・ジェレンスキと議論を交わしたのは、抗議の意味もあっただろう。


 自分用メモ。
 チャプスキはパリで、同じポーランド人の貴族として、ミシア・セール・ゴデプスカの庇護を受けていた。彼女は芸術家のパトロン、友人であり、画家のモデルをつとめたこともある。Wikipediaを見ると、見覚えのある絵が。

ミシア・セール - Wikipedia

 ちなみにプルーストは『失われた時を求めて』で、彼女をヴェルデュラン夫人のモデルにしたという。


 さて、冒頭の問いだが、何年か前なら間違いなく沢木耕太郎の『深夜特急』と答えただろう。10代の頃なら探偵小説と答えただろうか。できれば現代日本とかけ離れた時代と国の本が望ましい。どんな本なら、自分にも聞き手にも、生きる希望を与えられるだろうか。


プルーストつながりで:

iledelalphabet.hatenablog.com