歌人・片山廣子こと、アイルランド文学翻訳者・松村みね子の名前を知ったきっかけは、何だっただろう? 堀辰雄の「聖家族」あたりかもしれないし、芥川龍之介の文章かもしれない。
ざっと経歴を書いておく。
1878年(明治11年)生まれ、1957年(昭和32年)死去。明治、大正、そして第二次世界大戦後の昭和まで生き抜いた。父親は外交官を務め、嫁いだ夫は後に日本銀行理事になった。名家の令嬢から令夫人となり、しかし、戦時中は疎開したり、屋敷を失ったり、戦後は苦労があったらしい。また、息子(筆名は吉村鉄太郎)を45歳の若さで亡くす。太宰修の表現を借りるなら、彼女もまた「斜陽族」の一人だったと言えよう。
翻訳者・村岡花子をモデルにしたNHK朝ドラ「花子とアン」には登場しなかったが、東洋英和女学校の先輩にあたる。村岡に惜しみなく本を貸したり、文学上の良き先輩でもあり、生涯交流もあった。村岡が大森に住んだのも、大森に住んでいた片山の影響だっただろう。それなのに朝ドラにまったく登場せず、残念である。脇役で描くには、大きすぎる存在だったのかもしれない。
大正~昭和初期に、本書では「燈火節の周辺」とくくられたエッセイを雑誌に発表していた。戦後になって、「燈火節」となるエッセイ執筆の依頼があったのは、その関係かもしれない。「燈火節」41編は戦後に書かれたもので、「かえって良かったかも」と思った。もう少し早ければ戦争があり、つまり検閲もあった。自由に伸びやかに文章を書くことが難しかっただろう。
歌人としては本名の片山廣子で活動し、翻訳者としては松村みね子の筆名で本を出版した。作家の室生犀星、芥川龍之介、堀辰雄、菊池寛らとも交流があった。「黒猫」に登場するМは室生、Aは芥川のことだ。芥川が命を絶ったのは昭和2年だが、以後、松村みね子は表舞台から姿を消してしまう。
「あとがき」から引用する。
もう二十何年か前、昭和の初めごろ、私は急に自分の生活に疲れを感じて
何もかもいやになってしまつた。それまで少しは本を讀み、文學夫人といふ
やうな奇妙なよび名もつけられてゐたけれど、そんな事ともすつかり縁をきつて……
松村みね子が消えたのは、言い換えると、彼女がアイルランド文学から離れたのは、芥川の死が影響しているのではと言われている。だが、「昭和の初めごろ」に起きた重大な出来事はそれだけではなかった。
本書の「うちのお稲荷さん」(昭和5年発表)を読むと、エッセイの前年、大病をしたとある。親戚の女性が大きな借金を作り、その一家は破産の瀬戸際まで迫ったという。親戚である著者も、債権者と会うことになったり、また、騒動が原因で片山は寝込んでしまったとある。はっきりと書いていないが、要するに、裕福な親戚である片山家に、代わりに借金を返済するよう、迫られたのではないか。
夫君の片山貞治郎はすでに数年前に他界していた。夫君が生きていれば、こういった交渉は夫君が担当したはずだ。一般の主婦にとっても大変なことなのに、お嬢様育ちの令夫人にとっては、お金がらみの騒動に巻き込まれたことは相当な心労だっただろう。
この問題がいつ頃から始まり、また、いつ頃片付いたのかは分からない。だが、こんな騒動と心労から、「私は急に自分の生活に疲れを感じて何もかもいやになってしまつた」と言わしめたとしても意外ではない。
本書を読んでみて、意外な発見があった。著者のことを純文畑学の人だと(勝手に)思っていたのだが、意外にも、かなり探偵小説を愛読していたらしい。
「掏摸と泥棒たち」という作品には
師父ブラオンは樹の上にかくれてゐるフランボーに説教した。……
G・K・チェスタトンの「ブラウン神父」の引用ではないか!
「歳末」という作品には
それはニック・カアタアが探しあるいた殺人鬼の最期だ。
米国の探偵ニック・カーターだし!
他にも、随所に「探偵小説」という言葉が登場する。翻訳しようとか、日本の読者に紹介しようというつもりはなく、あくまで娯楽として楽しんでいたものらしい。他には何を読んでいたんだろう? 具体的に作品がわかる記述はそのぐらいである。
アイルランド文学に話を戻す。
本書には、アラン諸島を舞台にしたドキュメンタリー映画「アラン」の感想や、
イエーツやシングに寄せた文章、キリスト教以前の(おそらくはケルト文明の)神話・伝説が登場する。戦後の食糧難の時期に、じゃがいもの山を見て、訪れたこともないアイルランドに思いを馳せている(アイルランドでは、現代でもじゃがいもをよく食べるが)。