横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

カフェから時代は創られる

『カフェから時代は創られる』
飯田美樹  クルミド出版

 20世紀初頭のパリ。<フロール>、<ドゥ・マゴ>、<ロトンド>など、モンマルトルやサン=ジェルマン・デ・プレ、モンパルナス界隈に、若き画家や作家、詩人たちの集まる名物カフェがあった。その若者たちは後に、美術史や文学史に名を残す有名な画家や作家となった。
 天才クラスの若者たちが偶然、同じ時代、同じ場所に集まったのだろうか?

 著者はその仮説を疑い、むしろカフェという場所こそが若者たちを天才に押し上げたと語る。

 

 当初、モンマルトル界隈にはモディリアーニピカソ藤田嗣治といった画家たちが集まり、サン=ジェルマン・デ・プレやモンマルトルのカフェにはヘミングウェイサルトルボーヴォワールなどの作家たちが集まっていた。

 共通するのは、これらのカフェに初めて足を運んだ時は、彼らはまだ何者でもなかったということ。「画家として成功したい」または「作家になりたい」という希望を胸に秘めた、無名の若者だった。少し年上の先輩だけでなく、同世代の仲間に接するうちに「いつかは自分もあんな風に」と成功するための手本にし、刺激を受けた。

 

 なぜ若き芸術家たちがカフェに集まっていたのか?
 一つには、当時の住宅事情がある。暖炉のために大量の薪を買うとかなりの出費になり、ストーブで暖を取れるカフェで過ごすのが合理的だった。また、携帯電話やメールもない時代、友人と会う約束をとりつけるのが手間で(速達を何度かやり取りする必要があった)、「カフェに行けば、いつも友人がいる」のは好都合だった。通りを向いたテラス席だと座っている人の顔が見え、友人を探しやすかった。
 雑誌や新聞が備えてあり、情報収集にもうってつけだった。
 何より、コーヒー一杯で長時間居られる。居場所のない外国人にはありがたい場所だった。

 カフェ店主の側も若者たちを温かく見守った。勘定をツケにしたり、時には代金として絵を受け取り、詩の朗読会の開催を許可したり。他店と違う独自の雰囲気を作り、芸術家による評判を築いた。

 同じ頃、パリにはガートルード・スタインが主宰するような文学サロンという場所もあったはずだが、女主人の意向に左右されて窮屈なサロンよりも、出入りが自由なカフェの方が、若き芸術家たちには居心地が良かった。

 もちろん、才能のあった若者たちがただカフェに集っただけで成功できたわけではない。パーティーの最中でも藤田嗣治はふらっと抜け出し、創作のための時間を確保し、キャンバスに向かった。日本人ならではの特性を生かし、ヨーロッパの画家との差別化を図った。ヘミングウェイボーヴォワールも、静かで集中できる午前中にカフェへ来て、書き物をした。成功するまで、地道な努力があったのは言うまでもない。


 本書は『cafeから時代は創られる』(いなほ書房、2008年)の増補改訂版として、2020年に出版された。巻末に、パリのビストロ店主のインタビューが掲載され、2015年のテロ、黄色いベスト運動、最近のコロナによるロックダウンのことが出ている。

www.la-terrasse-de-cafe.com

 ところで、「クルミド出版」って初めて聞く出版社だなあと思ったが、国分寺にある<クルミドコーヒー>の出版部門だという。業務形態は違うが、パリの「シェイクスピア・アンド・カンパニー書店」がかつてジェイムズ・ジョイスの本を刊行したことを連想した。

 

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