横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

映画 エノーラ・ホームズの事件簿

「エノーラ・ホームズの事件簿」Enola Holmes
監督:ハリー・ブラッドビア
出演:ミリー・ボビー・ブラウンヘレナ・ボナム・カーターヘンリー・カヴィル、サム・クラフリン

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 シャーロック・ホームズに妹がいたという設定のホームズ・パスティーシュ『エノーラ・ホームズの事件簿』(ナンシー・スプリンガー作)が映画化され、日本でもNetflixで配信開始。

 小説についてはこちら。

iledelalphabet.hatenablog.com

 一言で言うと、スピーディーな冒険活劇。舞台は19世紀の英国だけど、かなり現代的な要素を加えてある。2時間があっという間に過ぎる。ミリー・ボビー・ブラウンの魅力満載。

 まず、キャストの感想を。
 ミリー・ボビー・ブラウン演じるエノーラは、活発で聡明でとにかくキュート。エノーラに大きな影響を与える母親役はヘレナ・ボナム・カーターで、型破りで風変わりな女性役がハマっていた。サム・クラフリン演じるマイクロフトは、自分史上最も「シュッとした」マイクロフトだった。スリムなマイクロフトはBBC「シャーロック」の流れか? でも19世紀だから、この後加齢と共に太る設定なのかな。

 そしてヘンリー・カヴィルは、自分史上最もイケメン&プレイボーイ風なシャーロック・ホームズで、「どこが女嫌い???」。よく海外のパスティーシュで「シャーロック・ホームズには子供がいた」という作品があるけど、ヘンリー・カヴィルのホームズなら、女性を拒まず恋人もいそう。そりゃ子供もいるだろう、と思わせる雰囲気。BBC「シャーロック」のベネディクト・カンバーバッチが「女にも男にも興味のないアセクシャルなホームズ」を演じた後なので、余計にそう感じる。

 「妹に優しい」という設定のシャーロック・ホームズなので、某財団からクレームが来た。だがこれに関しては、ナンシー・スプリンガー作品の元となるコナン・ドイル聖典の1つ「ぶな屋敷」の中で、ホームズは依頼人若い女性)のことを「自分の妹だったら、あんな場所には行かせない」みたいな台詞を言っている。つまり、女嫌いではあっても「もしホームズに妹がいたら、親身だっただろう」と思われるのだ。なので「妹に優しい」ホームズは十分ありだと思う。


 ナンシー・スプリンガーの原作から色々と変わっていて、「もしかしてシリーズを一話に凝縮したのか?」と一瞬思った。エノーラや兄たちが懸命に探していた母が、割とあっさり出てきたので「あれ?早くない?」。また、エノーラは兄たちから逃げるのだが、原作では偽名を使い、もっと長いこと逃亡しているのだが、これまたあっさりシャーロックに探偵稼業を認められている。

 それと、こんなにアクション多かったっけ!? 「探偵になるなら、戦えないと」ということだろうか。男装ならまだしも、長いスカートやらコルセットやらクリノリンを身に着けた状態で、よくあれだけ動ける&戦えるなあ!! もしかしたらエノーラは動きやすいように細工してるのかもしれんが。格闘シーンは男装でも良かったんじゃないかな。


 Netflix作品は初めて見たけど、ディズニー映画みたく各方面に配慮したのかキャストが多国籍になっていて、19世紀の英国としては不自然だった。つまり、ガイ・リッチー監督の「キング・アーサー」みたいになってる。

 少し前にグラナダ版「シャーロック・ホームズの冒険」をまとめて見直したけれど、あの時代の英国が舞台なら、今回の作品で主要なキャストはほぼ白人になるはず。ドックとかアヘン窟とか使用人ならまだしも、「こーいう所にこの国の人はいないだろ」。たとえば、スコットランドヤードのレストレード警部を演じているのがパキスタン系の俳優で「さすがに時代を先取りしすぎでは?」と思った。大英帝国領インドの警察ならまだしも。また、レストレードという英国風の名前と合わなくなってしまうので、オリジナルキャラとして名前もインド・パキスタン系に変えないとおかしくなる。


 フェミニズム作品かどうかについて。
 私は自分が鑑賞した作品のレビューを読むのが好きなのだが、先に見た人からは「ずいぶんフェミニズム寄り」という感想がチラホラ。恐らく、母親の失踪理由やティールームの女主人たちの活動を指していると思う。これに関しては原作(第1巻)には出てこない設定だし、映画版で追加されたものだけれど、「シャーロック 忌まわしき花嫁」やオスカー・ワイルド原作の「理想の結婚」にも女性参政権運動のことは描かれており、時代背景であり史実だと思う。

 やはり同時代の英国が舞台で、少女を主人公にしたティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」では、母親はアリス(コルセットをしない自由な少女)をパーティー兼縁談に向かわせるものの、最後には亡き父の知人の会社へ誘われ、入社することになる。単純な「ヒロインは結婚しました。めでたしめでたし」で終わらせないところが、自由な女性を描いていて、この時代としては斬新な脚色だった。

 舞台は違うが、ディズニーの「アナと雪の女王」はどうか。死にかけたアナを救うのはまるで「白雪姫」の設定のような「王子様(ハンス)のキス」かと思いきや、奇跡は起きなかった。要するに現代女性は王子様のキスで救われることはないというメッセージだ。

 それに対して「エノーラ・ホームズの事件簿」はどうか。
 ミリー・ボビー・ブラウンの年齢に合わせてエノーラの年齢が16歳に引き上げられ、それに伴いテュークスベリーの年齢も上がっている。若き貴族として貴族院で投票も行うし、エノーラに淡い恋心を抱いている。脱走したエノーラに手を焼いたマイクロフトも、この若いカップルを見て「(エノーラも)結婚すれば落ち着くだろう」と言っているのだ。

 ハイスぺ男子との結婚というのは、婚活の世界ではいまや結構な「無理ゲー」と認識されている。貴族ではないが良家の子女であるエノーラが、貴族テュークスベリーと淡い恋を育む。もしマイクロフトの言葉通り2人が結婚したなら、これは一種の上昇婚であり玉の輿ではないか? おまけに相手はイケメンで、探偵を目指す型破りなエノーラを理解している。これって、すごくないか!?

 水面下で女性参政権や社会改革を目指す母親が、娘に自立や自由な生き方を求める。娘はその方向に育つ。それと同時に、新しい女性であるエノーラは、イケメン貴族と出会う。婚活女子の多くが果たせないハイスぺ男子の「王子様」との結婚を、果たすかもしれないのだ。

 この相反するような話を一体どう解釈したら良いのだろう?
 映画は若い観客をターゲットにしているようだが、若い女性に「無理ゲー」を求めていないだろうか?


ヘンリー・カヴィルつながりで】

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