「鏡のなかのボードレール」
くぼたのぞみ著 共和国
ボードレール(Charles Beaudelaire)を知ったのは、何がきっかけだっただろう。エドガー・アラン・ポー作品をフランス語に翻訳、紹介した人物としてだったか。あるいは大学の授業でだったか。
ルネ・レウヴァンに『La Vérité sur la Rue Morgue(モルグ街の真実)』というポーのパロディ小説があるが、単行本の後半には、ボードレールによるポーの仏語訳が収録されている。フランスのAmazonで検索すると、今でもボードレール訳のポーの文庫本が手に入る。ボードレールが19世紀の人だということを考慮すると(19世紀の仏語は現代に至るまで大きく変化していないが)、現在でも普通に翻訳が読まれているのはすごい。
本書によると、ボードレールがポーを最初に読んだのはイザベル・ムーニエ訳「黒猫」で、25歳の時。その後、雑誌にポー作品を翻訳掲載。1857年には『異常な物語』の翻訳のため、文部大臣に補助金を申請し、200フランが下付されたという。
割と早い時期にポーが仏語訳されたことで、フランスのミステリ史は大きく動いたと思う。ポーに影響されて、エミール・ガボリオはミステリを書いたのだから。
ボードレールには何人か創作の「ミューズ」となった女性がいて、本書ではジャンヌ・デュヴァルについて、南アフリカやカリブ海の文化も交えて考察している。サバティエ夫人、マリー・ドーブランなどは出てこない。
ジャンヌ・デュヴァルという女性に対する、日本の男性文学者たちの描写・解釈がひどい。昔のことゆえ情報も少なく、クレオール文化に対する理解が薄かったことを割り引いても。くぼたのぞみさんという、女性の翻訳者・研究者にこの本を書いてもらって本当に良かった!と心から思った。
くぼたさんはクッツェーの翻訳を手がけた方で、南アフリカの文学に詳しい。南ア・コンスタンシアのワインから、ボードレールの詩編を思い出すくだりはわくわくした。
文学史の観点から、ミューズたちのうち、私はサバティエ夫人に興味があった。文学サロンを開き「女議長」とあだ名され、彼女の家には文学者らが集まった。テオフィール・ゴーティエ、アレクサンドル・デュマ(父)、フロベール、ネルヴァルなど、そうそうたる面々。その中にボードレールもいた。
ルネ・レウヴァンの『シャーロック・ホームズの気晴らし』収録の「煙草王ハーデンの脅迫事件」を初めて読んだ時、この作家たちの名前を見て「うわ、なつかしい!」と思ったが、大学の授業の思い出もあるが、たぶん、ボードレールとサバティエ夫人関連で目にしたせいもあるだろう。
ボードレールは大詩人だけれど、存命中にアカデミー会員になれなくて、嘆願する手紙を書いたことが分かっている。どこか「芥川賞をください!」とお願いした太宰治に通じるところがある。聖なるところと、俗なる部分が入り混じった人物。亡父の遺産を使い果たし、準禁治産者の扱いを受けている。どこかで、彼の生涯を映画かドラマにしてくれないだろうか。なかなか面白そうなんだが。
日本のボードレール研究といえば、本書に名前の出てくる、阿部良雄先生も忘れてはいけない。
私が大学4年の時に、東京大学を定年退官された阿部先生がうちの大学の仏文科に移ってきた。当時、ボードレール研究の第一人者という評判は知られていて、でもうちの大学ではランボーの講義を行った。私はもう、めぼしい単位を取った後で、その講義は金曜朝イチだった。登録はしたものの、ほとんど出席していません。先生、ごめんなさい。せめて、先生の本をこれから読ませていただきます……。
本書に「踊る蛇」(原題:Le Serpent qui danse)の和訳があるが、このボードレールの詩にセルジュ・ゲンズブールが作曲している。ボードレールの詩がこんなに軽やかになるとは。
ところで、今気になっている、世田谷美術館で開催中の「パリジェンヌ」展なのだが、講師の中に、くぼたのぞみさんのお名前が。講演のタイトルは「褐色の肌のパリジェンヌ ― エキゾティシズムが生んだミューズたち」という。ジャンヌ・デュヴァル関連だろうか。興味のある方はどうぞ。
イベント | ボストン美術館「パリジェンヌ展」時代を映す女性たち
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「煙草王ハーデンの脅迫事件」では、ボードレールと同時代の作家たちが意外な形で登場する。