横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

マタ・ハリ伝 100年目の真実

マタ・ハリ伝 100年目の真実』Mata Hari: A Biography
サム・ワーヘナー著 井上篤夫訳 えにし書房 

マタ・ハリ伝: 100年目の真実

マタ・ハリ伝: 100年目の真実

 

  少し前に、NHK Eテレ「ドキュランドへようこそ」で、「美貌のスパイ マタ・ハリ」の回を見た。マタ・ハリは、第一次世界大戦中にスパイ容疑で処刑されたダンサーで、何度も映画化されている。

 NHKドキュメンタリー - ドキュランドへようこそ・選「美貌のスパイ マタ・ハリ」

“ジャワ島から来た巫女”としてパリの舞台に立ったマタ・ハリは、社交界の華となり、幾多の政治家や貴族、そして、敵同士だった独仏の高級士官とベッドを共にした。オランダの商家に生まれるが流浪の人生を歩み、インドネシアで2人の子をもうけるが離婚…そして、戦局が大詰めとなった頃に二重スパイとして処刑場へ。愛と欲望を惜しげもなくさらした“太陽の女”と周囲が織りなした数奇な物語を、魅惑的な映像で描く。 

  (番組サイトより)

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 確か、マタ・ハリの母国オランダの制作だったと思う。

 番組でマタ・ハリの生涯を要約していたが、晩年の「スパイ容疑」はかなり疑わしいものだったという。スパイだったとしても、処刑されるほどの重罪ではなかったのではないか、と。自国民を冤罪からフランスに銃殺された、オランダの誇りと怒りを感じた。

 興味を持ち、信頼できそうな伝記を探してみた。それが本書である。著者のサム・ワーヘナー(1908-1997)もオランダ出身で、あとがきによると、1920年代にグレタ・ガルボ主演の映画「マタ・ハリ」の宣伝のため、リサーチを行ったのがきっかけで、「マタ・ハリ伝説の虜となった」という。関係者にも取材し、オランダ国内外の資料にもあたっている。原書である『Mata Hari: A Biography』は1964年に出版され、各国語に翻訳された。日本ではようやく2017年に翻訳出版された。


 後の「マタ・ハリ」(マレー語で「太陽」の意味)ことマルガレータ・ツェレは1876年、オランダに生まれる。軍人と結婚したことで、当時植民地だったオランダ領東インド(現在のインドネシア)に移住した。この時に現地の踊りを見聞きしたのが、後年エキゾチシズムを売りにしたダンサー誕生のきっかけになる。

 離婚後移り住んだパリで、手に職のない素人が知人のサロンで、見よう見まねで東洋風ダンスを披露しただけでは、プロのダンサーにはなれない。話題を呼んだのは彼女の美貌と謎めいた経歴(彼女には虚言癖があり、今風に言えば、話を相当盛った)、エキゾチックな衣装と振り付け、そして、これを言ったら身も蓋もないが――ヌードになったからである。


<<コレットマタ・ハリの踊り>>
 有名になり、舞台に出演するようになる以前は、当時の音楽家のように、貴族や文化人などの邸宅のサロンで踊りを披露していた。観客の一人に、女流作家コレットがいた(関連記事はこちら:コレット)。

フランス人作家コレットはその晩の観客の一人だった。1923年12月号のパリの『フィガロ』誌でその印象を書いている。「エマ・カルヴェ(邸)で彼女のダンスを拝見した。実際のところダンスではなく、優雅に服を脱いだだけだった。裸同然の姿で登場し、伏し目がちに『曖昧な』ダンスを見せると、ベールに身を包んだまま消えていった」 

  実際にコレットマタ・ハリの踊りを見たのが厳密に何年頃なのかは分からない。だがコレットも、夫ウィリーと離婚後、舞台に立ち、パントマイムや踊りを披露している。そして、やはり舞台上でヌードを披露して話題を呼んだ。

 やがてマタ・ハリはフランス国内だけでなく、海外にも呼ばれて舞台に出演するようになるが、久しぶりにパリに戻ると、その間に彼女の模倣者が何人も現れていた。

海外に行っている間に、彼女の亜流が登場していた。劇場やキャバレーには裸のダンサーが数多く存在していた。裸に近い姿になって美しい体を見せれば、ファンが簡単に集まると多くの女性が気づいてしまったのだ。 

  あくまで仮説ではあるが、コレットマタ・ハリの踊りにヒントを得た一人かもしれない。


<<マタ・ハリの逮捕、処刑>>
 第一次世界大戦が勃発し、カムバックを賭けたベルリンでの仕事はキャンセルになり、オランダへ一時帰国する。仕事を求めて、また恋人(年下の軍人)に会うのが目的で、なんとかフランスに向かおうとする。フランスより先に英国当局に疑われていたマタ・ハリは、クララ・ベネディックスなる女スパイと間違われて、誤認逮捕される。

 マタ・ハリがフランス当局に目をつけられたのは、戦前ドイツへ何度も入国していたことが理由らしい。

彼女が本物のスパイだったら、フランスに入国できなかった時点で理由を考えたはずだ。彼女にその様子はなかった。戦前、たびたびドイツに入国していたために、フランスに疑いをかけられたかもしれないという考えは微塵もなかった。
 ……
その気ままな生活ぶりはスパイ活動を行っているとは考えなくても――ドイツとフランス両方の――諜報機関のトップに警告があってしかるべきものだった。
 ……
そして語学に長け、ライン川をはさむ国々に地位の高い知り合いも数多くいた。

しかし、ごく常識的な知識が欠落している部分があった。

 当局に疑われると同時に、語学力(数か国語に堪能)や人脈(高級娼婦としてフランスだけでなくドイツの地位ある男性、軍の高級士官などと関係を持っていた)など、スパイになる条件は満たしていた。ただ、引用部分の最後の一行から、スパイとしての資質はゼロだったことがわかる。


 マタ・ハリの経歴については、本人があれこれと話を盛っていて、新聞の取材などでも毎回違うエピソードを語っている。会ったこともない有名人について「会ったことがある」と吹聴する。そういったことも響いて、芸術界隈とは無縁の人たちからは「何やらうさんくさい人物」として見られていたふしもある。フランスで逮捕されても、オランダ政府や王室から釈放を求める働きかけがなかったのは、その辺りも関係しているのだろうか。

 フランス軍諜報局長のラドゥーからフランス側のスパイとして働くよう持ちかけられ、一応は「スパイとなった」が、マタ・ハリは大した情報はもたらさなかった。あまりに失態が多く、そもそも「スパイ」と呼べたのか。それなのに逮捕、処刑にまで至ったのは、戦況が悪化する一方のフランスでは、疑心暗鬼に陥り、少しでも疑わしい人物をかたっぱしから捕まえていたから(なんと、ラドゥー自身も告発され、投獄されている)ではないかと著者は解釈する。


フランスの士気を維持するには、前線の状況から人々の関心をそらす必要があった。何とかスケープゴートを見つけなければならず、スパイ狩りの施行が政府を維持する手段になっていた。少なくとも、責任の一部をスパイの違法行為に押しつけることができた。短時間のうちに数名のスパイが逮捕され、裁判にかけられて銃殺された。

 


 あとがきで、訳者がオランダにあるマタ・ハリゆかりの土地を訪れた時のエピソードが紹介されている。昔彼女が住んでいた建物の住人が自慢げに話すのは理解できるが(ご当地の有名人だし)、街に銅像まで建てられていたのは驚いた。

 正直、マタ・ハリはプロのダンサーとしてそこまで評価は高くなかったそうだし、高級娼婦であり、スパイだった女性だ。なぜ銅像まで建ったのだろう。不当に処刑された女性への、名誉回復のためだろうか。ただ「地元出身の有名人だから」だけでは説明がつかない。

 

<<エドモン・ロカール>>
 意外なところでエドモン・ロカールの名前が出てきたのでメモしておく。

 マタ・ハリの生涯については、正確な情報が分からないまま、世間に流布し、映画化された。本書以前にもマタ・ハリの伝記や小説が書かれたが、サム・ワーヘナーから見れば間違いだらけだったようだ。


(1915年にマタ・ハリがパリにいたという説について)
その記述はおそらく正しいのだろう。しかし、この年については、いろんな作家たちの手で――完全なでっちあげの――単なる思いつきの記述が書かれ、そのいずれも正しいと受け取られた結果、元々新聞に書かれたエピソードを基にした間違った噂話が無数に作られていった。その新聞のエピソードは……(中略)……1954年にはエドモン・ロカールの『マタ・ハリ』にまたしても使われ……

 私が個人的に追いかけているエドモン・ロカールは、フランスの犯罪学者で、多くの著作がある。犯罪学者として本業に関連するノンフィクションと、作家として小説の両方を発表しているが、『マタ・ハリ』はどっちなんだろう。もし小説だとしたら、面白くなるよう話を盛っている可能性もあるし、間違った資料を参照して書いてしまった可能性もある。何しろ、ロカールが『マタ・ハリ』を書いたのは、サム・ワーヘナーが伝記を出す1964年より前なのだから。


 また、第一次世界大戦中のフランス軍諜報部の動きについて、ラドゥーの著書からの抜粋が出てくる。


ラドゥーはパリとロンドンの間に見事に張り巡らせた蜘蛛の巣を最大限利用すべく、強力なエッフェル塔の無線に指示を送り、マドリッド付近に密かに存在するドイツの通信機とベルリンのやりとりをすべて傍受させた(ラドゥーがこのときだけ指示したというのはおかしな話だ。ドイツ通信の存在がわかっていたなら、フランスは傍受をすでに行っていたはずで、ドイツの暗号の解読をその前から行っていたことになる)。


 サム・ワーヘナーの指摘どおり、フランス軍はドイツの暗号の解読を行っていた。第一次世界大戦中、エッフェル塔は電波塔、軍事施設として利用され、無線を傍受していた。実は、エドモン・ロカール第一次大戦中、フランス陸軍で暗号解読に従事していた。謙虚な人柄なので、自伝でもあまりつまびらかにしていないのが残念だが、かなりの功績を上げている。


【関連記事:第一次世界大戦中のスパイ サマセット・モーム

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