横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

ジョン・ル・カレ伝

ジョン・ル・カレ伝』
アダム・シズマン著 加賀山卓郎・鈴木和博訳 早川書房 

ジョン・ル・カレ伝 上

ジョン・ル・カレ伝 上

 

 

ジョン・ル・カレ伝 下

ジョン・ル・カレ伝 下

 

 
 元英国諜報員で作家のジョン・ル・カレの伝記。日本では少し前に本人による自伝が出たが、アダム・シズマンがまとめた本書には、自伝にはない情報(さすがに第三者でないと活字にできない)が含まれている。

 

 冒頭、著者が「本人の話と、過去のインタビューや著述との矛盾がある」と指摘している。小説用に、過去の実体験を書き換えてきたので、小説になった記憶を現実のそれとして記憶してしまったらしい。そんなこんなで結局のところ、ル・カレというフランス風のペンネームを選んだ理由は分からずじまい。


 ジョン・ル・カレことデイヴィッド・コーンウェルが諜報員という形で国に貢献しようとしたのは、父親の影響があった。悪い意味で。父親ロニーは詐欺師で、多くの人から金を巻き上げ、挙句に破産したが、第二次大戦中はほとんど従軍していない。そのくせ除隊後は実績もないのに”大佐”を名乗っている。

 デイヴィッドの最初の妻アンの父親は空軍勤務で、実際に戦っている。自分の父親を同世代の英国人男性と比べると、恥ずかしいという気持ちしかわいてこない。その分、違う形で自分は国のために働こうと決意した。

 スイスの大学で学んでいる間にMI6にスカウトされるが、結構テキトーな印象。ちょうどドイツ語堪能な英国人学生がそこにいたから、という感じ。ただし、オックスフォード大学以降は人物査定をされて、そのうえで再度スカウトされている。在学中に、学内の共産党グループに潜入したりもしている。


 高等教育の過程で、何度もあちこちの学校を出たり入ったりしている。関係者の推薦状・紹介状を読むと、デイヴィッド・コーンウェルの人となりが浮かび上がってくる。

 頭脳明晰で人あたりが良い。ものまねが上手で、絵の才能もあり、見たものをさらさらと描いているが、それはつまり観察力があったということだ。なるほど、優秀な諜報員の正体はこういう姿なのか。


 世代的に、デイヴィッドは第二次大戦では戦場に赴いてはいない。だが、戦時中は敵国だったドイツが戦後は味方になり(西側のみだが)、味方だったソ連が戦後は敵国になる。一緒に仕事をしたオーストリア人やドイツ人が、実は元ナチス党員だったりする。短い期間で敵と味方が入れ替わる。たぶん、当時は少なからぬ英国人が同じような困惑を覚えただろう。

 そういえばエマニュエル・トッドの本だったかな。終戦後、ソ連が米国に不信感を覚えたのは、ナチスドイツを倒すために、地上戦で最大の犠牲者を出したのはロシア人なのに、米国はソ連の貢献と犠牲に報いなかったからだと。


 興味深いのは、MI5とMI6での勤務である。デイヴィッドは両方の組織で働いている。とはいえ、任務が任務なだけに、あまり機密性の高いことは語っておらず、開示されているのは「問題ない」と判断されたものだけ(それでも十分、興味深いが)。守秘義務だけでなく、まだ関係者が生きていることもあるだろう。

 MI5とMI6の違いについては

MI5の活動範囲は国内で、個人および組織の行為による外的、内的な危険から、国家全般を防衛する事。
 ……
MI6の役割は、秘密情報の収集と海外での秘密活動だ。
 ……
MI5が本質的に”防衛”であるのに対し、MI6は”攻撃”ということだ。 

 

 MI5では書類が大事というのが、お役所っぽい。ジョージ・スマイリーのモデルの一人ジョン・ビンガムと知り合ったのも、MI5だった(もう一人のモデルは恩師ヴィヴィアン・グリーン)。MI6の新人研修はスパイの実地訓練で、映画のよう。デイヴィッドは実際には「007」みたいな真似はしていないが、当時の経験は小説に反映されているらしい。


 名門イートン校の教師の仕事(未来のエスタブリッシュメントを育てる大事な仕事)や、MI5・MI6勤務の悩みは「給料が安い」という点にびっくり。絵を描いてお金を稼いだり、小説を発表したのも、創作意欲とは別に「生活費のたしにする」という動機があった。夢もロマンもない。

 『寒い国から帰ってきたスパイ』の刊行直前、MI6の大物キム・フィルビーがモスクワに亡命し、ソ連の二重スパイだと発覚した。スパイ小説の発売にはあまりにもタイミングが良く、たちまちベストセラーになった。もともと前の作品も好評だったところへ話題性が加わったということらしい。


 下巻では、小説の映画化の裏話と現地取材(アフリカ、アジアなど)の様子が興味深い。冷戦終結後、「ジョン・ル・カレはこれから何を書くのか?」と思われたが、新しいテーマを見つけると積極的に海外を訪れ、入念なリサーチを行った。

 小説と違い、映像作品は制作者、監督、俳優と、多くの人が関与する。資金の問題もある。原作者の意図せぬ方向に仕上がり、がっかりすることもある。

 そういえば公開当時、映画「テイラー・オブ・パナマ」は、「007」のピアース・ブロスナンの出演作として話題になったが、評判が今ひとつで私も見ていない。

 反対に、ジョージ・スマイリー・シリーズのTVドラマ版は、名優アレック・ギネスを主演に迎えて成功した。本書を読んで知ったが、ジョージ・スマイリーは何度も映像化され、何人もの俳優が演じていた。作者は、「裏切りのサーカス」のゲイリー・オールドマンの演技についてはどう思ったんだろう。


 今、グレアム・グリーンとかジョン・ル・カレを読書強化中なのだが、先にル・カレの自伝的小説『パーフェクト・スパイ』を読んでおけばよかった。ところどころ「この小説のモデルとなった人物である」という記述が出てくるので。

 「裏切りのサーカス」続編の噂があったが、海外ロケが必要、かつ冷戦当時の風景の再現が必要だから、少し時間がかかるだろうか。

 

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