横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

お茶をどうぞ 対談 向田邦子と16人

「お茶をどうぞ 対談 向田邦子と16人」
向田邦子  河出書房新社

 

お茶をどうぞ: 対談 向田邦子と16人

お茶をどうぞ: 対談 向田邦子と16人

 

 
 もう向田邦子さんの新しい本は読めないと思っていた。昔の雑誌・テレビの対談を集めたものだが、新たにこんな形で読めてうれしい。

 対談の相手は、友人の黒柳徹子さんや、「寺内貫太郎一家」の小林亜星さん、演出家の久世光彦さんなど。いずれも向田さんが直木賞を受賞した前後の対談が多い。そして、対談相手も同年代が多いため、既に鬼籍に入った人が目立つ。

 黒柳徹子さんとの対談は2回あり、いずれも「徹子の部屋」に出演した時のもの。1回はエッセイ集を出した後、もう1回は直木賞受賞後の出演。ちょうど今年、NHK「トットてれび」で二人のやりとりを見たばかりなので、これがご本家か!と思った。とても楽しそうなガールズトーク。

 

 大河内昭爾さんとの対談は、鹿児島の食べ物について。転勤族の子供だった向田さんにとって、故郷と呼びたくなるほどのインパクトを与えた土地だったらしい。当時はネット通販もなかったし、見るもの、ふれるもの、食べるものすべてが新鮮だった。鹿児島文化を記憶にとどめるうえで、年齢と感性も、小学生頃というのが丁度よかったのかもしれない。 

 久世光彦さんは、向田さんの没後、ずっとTBSで向田作品のドラマを作ってきた人。そのおかげで、私でも映像の向田作品にふれることができた。加藤治子さんの演じるお母さんとか、三姉妹とか、キャストが良かったんだよね。後に作家として、小説やエッセイを発表した。「一九三四年冬―乱歩」とか「早く昔になればいい」とか、読んだ覚えがある。向田邦子さんをしのぶ文章では、姉貴のように思っていたと書いてあったっけ。

 実家で読売新聞をとっていたので、久世さんが読売新聞に寄稿していたエッセイも読んだけど、毎年お盆に向田家へ伺っていたという。お母さん、妹さん二人の女性三人で、毎年のように行われるルーティンのような動作について書いてあった。ふと、向田さんには弟さんもいた(やはりお姉さんの回想録を書いている)はずだが、どうしていないんだろうと思い、確かめてみると、後に弟さんも亡くなっていたことがわかった。四人の子供のうち、二人に先立たれたお母さんの気持ちを思うと……。


 今から20年ほど前、私は語学留学で一年日本を離れたが、日本語の本を大量に持って行った。その中には、向田邦子さんのエッセイの文庫本も入れていた。向こうで知り合った日本人の女の子も、やっぱり向田邦子さんの文庫本を持っていた。彼女の部屋の本棚に置いてあったのだ。インターネットも一般的ではなかった時代、海外で日本語を忘れまい、美しい日本語にふれていたいと思った時に、どちらも向田邦子さんの本を持って行ったというのが興味深い。

 フランスへ向かうのにお金がなかったから、エールフランスだのJALだの直行便の飛行機は乗らず、トランジットが必要な大韓航空でパリを目指した。朝の便に乗ることになり、関東に実家がありながら、初めて成田のホテルに泊まった。日本で過ごす最後の晩、テレビで放送していたのは向田邦子さん原作の「かわうそ」のドラマだった。寝落ちしそうになりながら、なんとか最後まで見ようと頑張った。この後一年間は、もう日本語でドラマや映画を見ることはできないからだ。

 本書を読むと、向田さんは「かわうそ」を海外旅行の直前に書きあげたという。成田空港から出発する前に、電話で原稿を送ったとか。編集部に電話をかけて、ちゃんと話がつながっているか確認をしたと。すごい修羅場。

 完成までにそんな背景があった小説のドラマを、よりによって成田のホテルで出発前夜に見たなんて、我ながらすごい偶然だ。

 本書の対談は、直木賞受賞によって、一躍作家として有名になった時期のものばかり。年月を確認すると、1980年のものが多い。向田さんが台湾旅行へ行き、帰らぬ人になったのは翌年の1981年のことである。当時の人にとっては、いつの間にか現れて、いつの間にか伝説になった作家という印象だったのではなかろうか。



向田邦子さんの誕生日に