「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」Genius
出演:コリン・ファース、ジュード・ロウ
監督:マイケル・グランデージ
原作はA・スコット・バーグの 「名編集者パーキンズ」。フィッツジェラルドやヘミングウェイを発掘した名編集者パーキンズと、若くして亡くなった”天才”小説家トマス・ウルフの物語。
ワープロやパソコンがなかった時代の、「編集」作業の大変さに圧倒された。無造作に赤を入れているわけではなく、適度に言葉を刈り込み、単語を変え、付け加える。これもひとえに作品を輝かせるため。地道な作業に頭が下がる。
でも、ゼロから言葉を生み出した作家にとっては、目の前で言葉を削除されるのは、身を切られるような思いなのだろう。
映画の舞台は1920~1930年代の米国なんだけど、主要な俳優陣が英国人(コリン・ファース、ジュード・ロウ、ローラ・リニー)やオーストラリア人(ニコール・キッドマン、ガイ・ピアース)というのに気が付いた。偶然こういうキャスティングになったのか、それとも狙いがあったのか。
大長編の編集作業は、当然ながら長い時間がかかり、パーキンズもウルフも出版社に缶詰状態になる。日本なら、こういうワーカホリックな環境を「まあ、仕事だから仕方ないさ」と周囲も諦めるところを、米国だから、理解は得られない。もっと家族や恋人に時間をさくよう、求められる。
こういうの、チャップリンの伝記映画「チャーリー」でも見た覚えがある。仕事場にこもって映画のアイデアを考える主人公に、妻たちは愛想を尽かして出て行ってしまうのだ。たぶん、こっちが世界標準で、日本人がおかしいんだろうな。
ニコール・キッドマン演じる、ウルフの恋人が出版社に乗り込んでくるのだが、まるでパーキンズとウルフの関係に嫉妬し、二人の仲を裂くかのよう。本の完成後も、パーキンズに「私も捨てられたから、あなたも捨てられるはず」と言ったり。ヘミングウェイも同じようなことをパーキンズに言ったり。(何皆して、引き裂こうとしてるんだ!? 何なの、この人たち!?)
やがていさかいの後にウルフはカリフォルニアへ旅立ってしまうが、彼が会いに行った旧知のスコット・フィッツジェラルドの姿が、つまり「書けなくなった作家」の姿が、見ていて苦しくなる。強がるウルフもきっと、「自分もこうなるのではないか」という思いが一度はよぎったはずだ。
パーキンズから離れたウルフはどうなってしまうのか? と思いきや、あっさり病に倒れてしまう。
フィッツジェラルドやヘミングウェイが今でも読まれ、作品が映画化されているように、パーキンズの目利き力は本物だった。二人に比べて、日本でトマス・ウルフの名前があまり知られていないのは、活動期間が短くて、作品数も少ないのが理由の一つかもしれない(私はフィッツジェラルドもヘミングウェイもサリンジャーも読んだけど、恥ずかしながらウルフは読んだことがない)。
そういえば、ヘミングウェイはフィッツジェラルドの才能を評価していて、彼が書けなくなったのを惜しんでいた。ヘミングウェイは、そうなったのは妻ゼルダのせいだと思っていて、彼女を毛嫌いしていた。
「食べて、祈って、恋をして」の女流作家エリザベス・ギルバートが、TEDで「創造性をはぐくむには」(Your elusive creative genius)というスピーチをしていた。その中で"genius"をもたらす"genie"(精霊)という言葉を出していたのが印象深かった。
"genie"ははかなくて、しっかりつかまえなくてはいけないと、フィッツジェラルドやウルフを見ていたヘミングウェイもうすうすわかっていただろう。晩年、ヘミングウェイは負傷したのを機に創作意欲が衰え、死を選んだ。
以下、余談。
私は特にジュード・ロウのファンではないのだが(ファンの人、ごめんね)、英米の映画を見に行くと、結構な割合でジュード・ロウが出ている。彼目当てじゃないのに。例を挙げる。
ロバート・ダウニーJr主演の「シャーロック・ホームズ」でしょ。
スティーブン・フライ主演の「オスカー・ワイルド」でしょ。
アラン・ドロン様の「太陽がいっぱい」のリメイク「リプリー」でしょ。
パリが舞台の「ヒューゴの不思議な発明」でしょ。
他にも色々。
これ、フランス映画だと、ロマン・デュリスかな(ファンの人、ごめんね)。見に行くのは彼目当てじゃないのに、結構出てる。
えっ。今回? コリン・ファース目当てだよ。
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パリ時代のヘミングウェイの回想録。