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横文字の島

Ile de l'alphabet ~ ある翻訳者の備忘録

あとがきのあとがき シャーロック・ホームズの気晴らし

ルネ・レウヴァン ホームズ 仕事―出版翻訳

 レウヴァン『シャーロック・ホームズの気晴らし』刊行から2年近くたちますが、Amazonなどを見ていると、今でも新刊・古本で地味~に売れています。図書館でも「貸出」になっていて、読んでいただいてありがたい限りです。

 さて、どこかで「あとがきに書き切れなかったことがある」と書いたように、この本は調べ物が膨大で、注釈やあとがきには盛り込めなかった情報もありました。備忘録も兼ねて、ここに書いておこうと思います。いつか再び役に立つ日がくるかはわかりませんが……。

シャーロック・ホームズの気晴らし

シャーロック・ホームズの気晴らし

 

 
・ベルティヨンとドレフュス事件
「トスカ枢機卿の急死事件」の中で、当時英国の隣のフランスを騒がせていた「ドレフュス事件」について言及されている。それも、ベルティヨンが捜査に協力していたことから、シャーロック・ホームズは希望的観測を述べている。

 



「バスカヴィル家の犬」や「海軍条約文書」に名前が出てきたので、コナン・ドイルの小説を読んだことのある読者なら、ベルティヨンの名前は聞き覚えがあるだろう。

 アルフォンス・ベルティヨン(1853~1914)はパリ警視庁鑑識課長で、「ベルティヨン式」と言われる人体測定法を編み出した人物。犯罪者の身長や手足の長さなどを計測して、記録をファイルした。後に指紋鑑定が主流になるまでは、犯罪者の身元を特定するうえで有効な方法とみなされていた。

 さて、「ドレフュス事件」だが、これは1894年、フランス陸軍のドレフュス大尉にドイツのスパイ容疑がかけられ、逮捕された事件である。大尉はユダヤ人で、犯行の証拠もなかったため、冤罪の可能性が高かった。作家のエミール・ゾラが「私は弾劾する」と、新聞に大統領への公開質問状を掲載するなど、フランス社会を二分する騒ぎとなった。

 そこで、事件の発端となったメモの筆跡鑑定が行われ、専門家の一人としてなぜかベルティヨンが呼ばれた。ベルティヨンは必ずしも筆跡鑑定の専門家ではなかったうえに、反ユダヤ主義者だった。鑑識のプロであるベルティヨンが、ドレフュスの筆跡だと認めたこともあって、ドレフュスは有罪になってしまった。

 しかし、真犯人は国外へ逃亡したものの、1906年にドレフュスは無罪判決を勝ち取ったため、結果的にベルティヨンは名声を失った。

 ホームズは、ベルティヨンが真実を明らかにしてくれると信じていたが、科学捜査の先達に対し、いささかホームズは純真すぎたようである。

 フランス人を母親に持つホームズは(祖母は画家ヴェルネの妹だ)、フランス語が堪能だった。英国人なので、客観的な立場で関われたはずだ。ベルティヨンではなく、ホームズが捜査に加われば、事件は早期に解決できたのではないだろうか。


ユダヤのお菓子
 作品の中に出てくる固有名詞は人名、地名、書名、事件名まですべて調べたが、その中でもいちばん手ごわかったのがこれ。「トスカ枢機卿の急死事件」に出てきたお菓子「ハローセト」である。

 フランス語では「charouzeths」と書いてあり、いくら検索しても出てこない。スペルミスを疑い、文字を変えてみても出てこない。このお菓子について言及しているのは、ロシア・東欧方面からロンドンに移住してきたユダヤ人。そこで、ロシア料理やユダヤ料理のサイトを調べ、料理事典も調べた。それでも、それらしきものが出てこない。

 お手上げ! 

 幸い、作者のレウヴァン氏は健在だった(当時、御年89歳)。手紙を書いて問い合わせたところ、あっさり「正解」がわかった。

 ネタ元は、イズレイル・ザングウィルの小説に出てくるお菓子だった。和訳がない小説なので、英文で検索し(欧米の古い書籍はデジタル化が進んでいる)、食事の場面をリサーチ。もしかして……これ? そこに書いてあったのは英語で「Charoset」という文字だった。

 全然違う!

 はたして、「Charoset」で検索すると、一発で出てきた。しかも、あっさり「ハローセト」という日本語表記まで判明した。こんなビジュアル。

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 レウヴァン氏が参照したのは、イズレイル・ザングウィルの小説の仏語版だろう。その仏訳した翻訳者が間違えたのか、それともレウヴァン氏が書き写すときに間違えたのか? 真相はわからない。



・テオドルのおじさん~翻訳者あるある~
スマトラの大ネズミ」には、ポーランド系英国人テオドルと、そのおじで大学教授のタデウスが登場する。

 ここで、欧米の小説の翻訳者が必ず直面するのが、おじさんは「伯父」なのか「叔父」なのか? たとえば英語だとbrotherとかsisterだけで、きょうだいが主人公より年上なのか年下なのか分からんという、お決まりの問題だ。二人の姓が違うので、どうやら母方のおじらしい。では、タデウスはテオドルの母親の、兄なのか弟なのか?

 テオドルの伝記(和訳)や、ネットの情報をあたってみても、「叔父」と「伯父」が混在しており、はっきりしない。たとえば伝記だと、タデウスはテオドルの母親の兄らしいことが匂わされているものの、なぜか表記は「叔父」だ。もう少し裏付けが欲しい。

 そこで、Wikipedia様(英語)に頼ってみると、後に著名人になったテオドルだけでなく、大学教授のタデウスについてもページがあるではないか。これでタデウスの生年が判明した。テオドルの伝記に戻り、母エヴァがいつ、何歳で亡くなったかを確認し、そこから生年を割り出すと、やはりタデウスは兄、エヴァは妹だった。

かくして、「伯父さん」だと分かりましたとさ。
めでたし、めでたし。
Wikipedia様、万歳!
たったそれだけなのに、調査にえらく時間がかかってしまった……。

 

ルネ・レウヴァンの誕生日に

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